ヒトモトの歩み

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ヒトモトの歩み

明治時代
~軍港の町・横須賀で誕生

ヒトモトの前掛け
人々の生活を支える商店・ヒトモト

一本商事は、明治22年(1889年)に初代・一本治平(ヒトモト・ジヘイ)が横須賀市若松町に酒店を開業したことによって始まりました。

当時、横須賀は鎮守府(日本海軍提督府)が設置され、海軍の町として大きな発展の中にありました。明治22年には横須賀・大船間で横須賀線も開通しています。

治平は和歌山県の生まれであり、これから発展していく横須賀に拠点を移すことで、自分の未来を託したのかもしれません。ここから一本商事は軍港の町の酒店として歴史を歩んでいくことになります。


大正から昭和へ
~町の発展と共に

一本商事合資会社
一本商事の店構え

大正14年(1925年)10月に初代・治平が死去し、同名の息子である二代目・治平が家督を相続しました。
そして二代目・治平は日中戦争開戦の翌年である昭和13年(1938年)7月に一本商事合資会社を設立します。

当時の横須賀の町には海軍関係者が集まる海軍料亭、旅館、遊郭などが多数あり、一本商事はそうした店に酒や食料品を販売していました。昭和13年は酒類販売業の免許制度が施行された年でもあります。これまで誰でも販売できた酒類が免許制になったのです。

その流れのなかで、一本商事も法人化されました。この事業を法人化した年に二代目・治平は亡くなってしまいます。そして治平の長男の彦治(ヒコジ)が家督を相続、会社を継承しました。


終戦を迎え
~苦難から新しい世界へ

先代・一本サク
昭和の急成長期を支えた先代・一本サク
昭和中期。右手「東京生命」看板のビルが現在のヒトモトビル(若松町1-2)
京浜横須賀中央駅
活気溢れる昭和中期の横須賀中央駅。

昭和20年(1945年)日本は終戦を迎え、海軍の町・横須賀にも連合国軍が上陸しました。そして横須賀鎮守府には米国の国旗が掲揚されます。これにより日本軍関連の組織は解散、施設などの引き渡しが行われます。軍関連・軍需産業で働いていた人がいなくなったため横須賀市の人口は激減しました。横須賀の町の様相もガラリと変わりましたが、終戦後の横須賀で急速に発展したのが、進駐した米兵向けの飲食・サービス業でした。米兵向けのバー、ビアホール、キャバレーなども増えていきました。そして、こうした店が一本商事の主要な取引先となります。

当時を知る六代目社長・大久保薫はその情景をこのように語っています。

「朝鮮戦争(1950年)の頃は、アメリカから来た兵隊が横須賀から朝鮮に行った。戦争に行けば生きて帰って来られるかわからない。当時は1ドル360円の時代で、日本の物価は安かった。町は米兵で溢れ、酒の消費も増えていった。当時の米兵向けのバーでは、営業中にカウンターの下にバケツを置いてお金を投げ入れていたが、入り切らずに足で押し込めていた。うちはこうしたお店を開拓して売上を上げていった。当時商売を出来たのは、兵隊さんが最後に金を横須賀で使ったからだ」

三代目社長の彦治は営業上手で、横須賀で戦後に開業したお店を開拓していきました。しかし彦治は昭和29年(1954年)に42歳で脳溢血で亡くなってしまいます。そこで事業を継承し、中心となったのが彦治の母であり、二代目・治平の妻であったサクでした。当時のお店は木造2階建てであり、1階は店で、その2階にサクと次男の幸治(コウジ)や娘など3世帯が暮らしていました。戦後の一本商事はサクが中心となり子供たちと一緒に運営してきました。番頭としてサク、そして幸治をサポートしてきた大久保薫は、サクが事業を引き継ぎ、運営していたことによって一本商事の基盤が出来たと語っています。

「サクさんが中心となって店を切り盛りしていくことで、今の一本商事が出来ていった。戦後は進駐軍を相手にしたバーやキャバレーが取引先では多かったが、横須賀の町も近代化していった。例えば三笠ビル商店街なんかは革新的な商店街だった。そして横須賀の町にもいろんな飲食店が増えていくなかで、うちの取引先も変わっていった」(大久保薫)


近代化の中で
~酒のデパートを標榜

ヒトモト・仲山純社長
「酒のデパート」として多種多様なお酒を取り揃える

昭和36年(1961年)には木造2階建の店をビルに改築します。この木造2階建てのお店は大正12年の関東大震災、そして太平洋戦争も耐え抜いてきました。ビルへの改築は一本商事の近代化の一歩でした。そして、このビルの改築によって打ち出したのが「酒のデパート ヒトモト」というキャッチコピーです。これは日本各地の日本酒や焼酎、ビール、世界各地のワイン、ウィスキーなどを取り揃えることによって、様々なお酒を皆様に届けるという方針のもとに考えられました。これは、この後に顕在化する酒販売の価格競争化と異にする戦略でした。七代目社長の仲山純は次のように語っています。

「私たちが”酒のデパート”と掲げているのは一つの酒に限らず、日本酒や洋酒など多様な酒を厳選して取り揃えてきたからです。例えばワインにしてもワインセラーを作って、様々な価格帯のワインを販売してきました。言ってみれば酒のセレクトショップなんです」(仲山純)

昭和44年(1969年)、社名を一本合資会社と改名して事業目的を「不動産の賃貸、飲食店の経営」に変更します。そして「一本商事有限会社(資本金400万円)」を新設してこれまでやってきた酒類、食料品等の販売を引き継ぎました。この年の12月には、新しい時代へとバトンタッチするかのように戦後の一本商事を切り盛りしてきたサクが亡くなってしまいました。

昭和44年には多くの方にご愛顧頂いている角打ち(立ち呑みカウンター)も始まりました。この角打ちは午前中に開店し、当時から朝から常連客、夜勤明けのお客様が来店されました。

「昔は酒も秤売りで販売していて、そこから角打ちも始まったそうです。一合のお酒は一升瓶の1/10の量で売っていました。横須賀の酒場の焼酎が濃いと言われるのは角打ちの影響です。焼酎も一合単位で販売されていた。一合の焼酎を割って飲むからすごく濃いんです。うちの角打ちは、お客さんはレジの周りでコップ酒を飲んでいたそうです。当時は店内で樽に入ったを味噌や塩を秤売りしていたんですが、お客さんが樽から味噌を指ですくってそれをアテに酒を飲んでりしていたそうですよ(笑)」(仲山純)

こうした朝からお酒が飲めるお店が必要だった背景には、戦後も横須賀が港湾都市として発展し、24時間働いている人たちがいたからだと言えます。ヒトモトの角打ちはこのようなニーズに応えて始まったのです。


創業100年を迎えて
~横須賀の町と共に

ヒトモト・仲山純社長
現社長・仲山純とヒトモト店舗

一本商事は時代の移り変わりとともに、横須賀の町のニーズに応えて営業を続けてきました。昭和62年(1987年)には酒店創業100周年記念式を開催させていただき、代表も現在の仲山純で七代目となりました。横須賀の飲食店と共に歩んできた酒店として、仲山純は次のように語っています。

「私たちの仕事で大事なのはお客様とのコミュニケーションです。これまでも私達は飲食店にどういうことが必要なのか勉強をしてきました。こうした知見をお客さんと共有してきたから、私達は商売が続けてこれたんだと思います。私達にとってはお客様が儲かるということが第一なんです」

明治22年の創業以来、私たちは横須賀の町と共に生きてきました。喜びも苦難もこの町の皆様と一緒に乗り越えてきました。そして、これからも一本商事は”酒のデパート ヒトモト”として皆様に、生活を潤す美味しいお酒を提供していきます。


取材協力・テキスト: 桑村 治良(on the hammock)、挿絵:桒村宰知子(on the hammock)